コメント
10月4日のコメントについて
9月9日の増田さんの記事に、10月4日にコメントをさせてもらいましたが、そのこと(私がコメントしたこと)について、2つ補足させてもらいます。
10月4日のコメントでは、私が野外保育に一定の評価をしているような書き方をしましたが(実際に一定の評価をしていますが)、増田さんが安曇野市民さんとの(コメント欄での)やり取りの中で書かれたように、野外保育が小学校における学習とのつながりを考えたものにしなくてはならない点については、私もそのように思います。野外保育がいわゆる「自由放任」にならないように留意する必要性は感じます。野外保育の先生は、いわゆる「リベラル」な感じの方が多いようにも感じますが、それが必要以上に(子どもを)「叱る」ことをためらったり、必要最小限度の「しつけ」をすることもためらう、というのは現実的な対応ではないと思います。現実的な視点で見通しを持った保育が、野外保育にも求められてしかるべきだろう、と思います。
2点目に(野外保育に関して)安曇野市民さんは、コメントに「小学校1、2年生のうちは出身保育園をもとにした友だちづくりをする傾向がある」と書かれていましたが、これが事実だとすればですが、今の子どもたちが(良くない書き方かもしれませんが)「社会と積極的に関わろうとする力」が弱いように感じます。
(小学校に)入学したての1年生の4月頃ならわかりますが、1年生の2学期以降やまして2年生になっても出身保育園にこだわった人間関係づくりをしている、というのは、失礼ながら、信じられない部分がありますが。
20年ほど前ですが、大北地域で小学校の社会科の授業研究をしている先生たちと話をしたときに、多くの先生が「最近の子どもたちは、いろいろな立場の人とすぐ仲良くなれる。あれは大したもんだ。」と話されていて、私も同感する部分がありましたので。
数年後、小学校3年生から外国語活動がはじまりますが、「2年生になっても保育園時代の仲間としか人間関係づくりができない」子どもたちが、3年生になって「国際理解」の学習というのは、無理がありすぎるように感じます。(ちなみに私は小学校での「英語(他の外国語もですが)学習」には疑問を持っています。ただ、小学生の子どもたちが外国の人たちと交流をしたり、その中で無理のない範囲で外国語でやり取りをする活動をする、というのは面白いと思いますが)
安曇野市民さんの現在の子どもたちの様子に関するコメントを読ませてもらい、子どもたちの実態に「びっくりして」しまい(うなづける部分もありましたが)、勢いにまかせて2度コメントさせてもらったので、良くわからない書き方や失礼な書き方があったかもしれません。ご容赦ください。
10月4日のコメントでは、私が野外保育に一定の評価をしているような書き方をしましたが(実際に一定の評価をしていますが)、増田さんが安曇野市民さんとの(コメント欄での)やり取りの中で書かれたように、野外保育が小学校における学習とのつながりを考えたものにしなくてはならない点については、私もそのように思います。野外保育がいわゆる「自由放任」にならないように留意する必要性は感じます。野外保育の先生は、いわゆる「リベラル」な感じの方が多いようにも感じますが、それが必要以上に(子どもを)「叱る」ことをためらったり、必要最小限度の「しつけ」をすることもためらう、というのは現実的な対応ではないと思います。現実的な視点で見通しを持った保育が、野外保育にも求められてしかるべきだろう、と思います。
2点目に(野外保育に関して)安曇野市民さんは、コメントに「小学校1、2年生のうちは出身保育園をもとにした友だちづくりをする傾向がある」と書かれていましたが、これが事実だとすればですが、今の子どもたちが(良くない書き方かもしれませんが)「社会と積極的に関わろうとする力」が弱いように感じます。
(小学校に)入学したての1年生の4月頃ならわかりますが、1年生の2学期以降やまして2年生になっても出身保育園にこだわった人間関係づくりをしている、というのは、失礼ながら、信じられない部分がありますが。
20年ほど前ですが、大北地域で小学校の社会科の授業研究をしている先生たちと話をしたときに、多くの先生が「最近の子どもたちは、いろいろな立場の人とすぐ仲良くなれる。あれは大したもんだ。」と話されていて、私も同感する部分がありましたので。
数年後、小学校3年生から外国語活動がはじまりますが、「2年生になっても保育園時代の仲間としか人間関係づくりができない」子どもたちが、3年生になって「国際理解」の学習というのは、無理がありすぎるように感じます。(ちなみに私は小学校での「英語(他の外国語もですが)学習」には疑問を持っています。ただ、小学生の子どもたちが外国の人たちと交流をしたり、その中で無理のない範囲で外国語でやり取りをする活動をする、というのは面白いと思いますが)
安曇野市民さんの現在の子どもたちの様子に関するコメントを読ませてもらい、子どもたちの実態に「びっくりして」しまい(うなづける部分もありましたが)、勢いにまかせて2度コメントさせてもらったので、良くわからない書き方や失礼な書き方があったかもしれません。ご容赦ください。
No title
私の書いた内容が全ての学校や全ての子供に当てはまる訳ではありません。が、一方で目の当たりにしてきた現実でもあります。
そもそも厳しい状況を作り出している学校に問題があるのは大前提です。その学校という仕組みや体質を変えることの方が現実的ではないとも思います。
また、保護者間での陰口、特には露骨さも陰湿です。信じられないような質の低い教師も存在します。
私自身、野外保育を否定する立場ではありません。ただ、野外保育を賛美推奨するあまり、そこに内在する問題、現実的に苦しむ子供がいることを無視することに危惧を感じています。「今後の課題です。」という言葉からはその危機感が私には感じられません。
そもそも厳しい状況を作り出している学校に問題があるのは大前提です。その学校という仕組みや体質を変えることの方が現実的ではないとも思います。
また、保護者間での陰口、特には露骨さも陰湿です。信じられないような質の低い教師も存在します。
私自身、野外保育を否定する立場ではありません。ただ、野外保育を賛美推奨するあまり、そこに内在する問題、現実的に苦しむ子供がいることを無視することに危惧を感じています。「今後の課題です。」という言葉からはその危機感が私には感じられません。
安曇野市民さんのコメントについて
上記の安曇野市民さんのコメントを読ませて頂きました。
10月4日の私のコメントで、安曇野市民さんに新たな見解を求めません、と書きましたが、私のコメントを読んで頂き、新たな見解まで書いて頂き、有難く思います。
コメント3~4行目の安曇野市民さんの学校教育に対する問題意識は、私も同感です。
そして、5行目に小学校教員の「質」について書かれていますが、私はこれこそが問題にしなければならない点だと感じますが、例えば、以前、安曇野市の保護者と思われる方で、学校配布のプリントのミスプリという、私から見れば小さな問題で、自分のブログ記事に取り上げ、他の保護者の方と学校の先生に対して愚痴を書きあう、という事例をネット上で見ましたが(こう書きましたが、学校にミスプリを指摘しても、学校の担当職員から「すみません」の一言もないのであれば、学校側の対応に大きな問題があると思います。もし、思い当たる方がこれを見たらご了承ください)、そういった学校の先生のちょっとしたミスを(だれでもがするようなミスを)「質が低い」とみなすのではなく、安曇野市民さんが指摘されている「野外保育園出身の子が小学校のクラスになじめない」ことに対して何の手立てもしない、というような「教師の質の低さ」については、私も問題を感じています。
実は、そこが私が野外保育に対して一定の期待する部分でもあります。
何年か前に、豊科の教育会館で教員OBの先生と話をさせて頂く機会がありましたが、若い先生たちの傾向として、
①子ども時代に、自分のような「勉強ができる」ような友だちばかりと仲良くし、幅広い友だちづくりをしない。そして、先生になり、いじめやけんかといった子ども同士のトラブルに対しての対応が的外れになってしまう。(子ども時代に幅広い人間関係を構築しなかったことが原因なのではないか。)
②子ども時代に自然の中で遊ぶ、親と一緒に野菜作りをするなどの経験が不足している。そして、先生になった時に生活科の授業(自然を対象にした学習や野菜づくりなどの栽培学習)を楽しめず、子どもたちにとってもいまいち楽しめない授業になってしまう。→このような授業を子どもたちが経験してしまうと、自然の中での遊びに興味が持てず、ゲームばかりに夢中になってしまう。
ことを指摘されていました。
上の②の課題の改善策の一つに、野外保育があっても良いのでは、と感じます。
ただ、安曇野市民さんが課題に挙げられている「小学校入学後の子どもたちの人間関係」については、野外保育と公立保育園とで交流を持つ、といった手立てで一定の解決ができるのでは、と感じます。
これからのわが国は「人」の時代になろうかと思います。「子どもたちが他者と関わろうとする姿勢」は大切だと思います。こういった点については、安曇野市民さんもおっしゃっているように、保育の場、小学校教育の場、保護者、地域問わず、子どもたちにとって良い環境を整える努力は必要だと感じます。
最後7~8行目「今後の課題」どうこうという部分については、おそらく、議員さんや野外保育に関わっている方々に対するものかと思いますので、私がこのことに対してコメントをする必要はないかと思います。ただ、ついでに書かせて頂くと、「議員さん」と言われる方々(市議、県議、国会議員問わず)が、例えば、人口減少問題や社会保障問題を(言葉は悪いですが)人ごと、評論家のように論じているのでは、と感じる時があります。そういった時には私も不愉快な気分になります。
10月4日の私のコメントで、安曇野市民さんに新たな見解を求めません、と書きましたが、私のコメントを読んで頂き、新たな見解まで書いて頂き、有難く思います。
コメント3~4行目の安曇野市民さんの学校教育に対する問題意識は、私も同感です。
そして、5行目に小学校教員の「質」について書かれていますが、私はこれこそが問題にしなければならない点だと感じますが、例えば、以前、安曇野市の保護者と思われる方で、学校配布のプリントのミスプリという、私から見れば小さな問題で、自分のブログ記事に取り上げ、他の保護者の方と学校の先生に対して愚痴を書きあう、という事例をネット上で見ましたが(こう書きましたが、学校にミスプリを指摘しても、学校の担当職員から「すみません」の一言もないのであれば、学校側の対応に大きな問題があると思います。もし、思い当たる方がこれを見たらご了承ください)、そういった学校の先生のちょっとしたミスを(だれでもがするようなミスを)「質が低い」とみなすのではなく、安曇野市民さんが指摘されている「野外保育園出身の子が小学校のクラスになじめない」ことに対して何の手立てもしない、というような「教師の質の低さ」については、私も問題を感じています。
実は、そこが私が野外保育に対して一定の期待する部分でもあります。
何年か前に、豊科の教育会館で教員OBの先生と話をさせて頂く機会がありましたが、若い先生たちの傾向として、
①子ども時代に、自分のような「勉強ができる」ような友だちばかりと仲良くし、幅広い友だちづくりをしない。そして、先生になり、いじめやけんかといった子ども同士のトラブルに対しての対応が的外れになってしまう。(子ども時代に幅広い人間関係を構築しなかったことが原因なのではないか。)
②子ども時代に自然の中で遊ぶ、親と一緒に野菜作りをするなどの経験が不足している。そして、先生になった時に生活科の授業(自然を対象にした学習や野菜づくりなどの栽培学習)を楽しめず、子どもたちにとってもいまいち楽しめない授業になってしまう。→このような授業を子どもたちが経験してしまうと、自然の中での遊びに興味が持てず、ゲームばかりに夢中になってしまう。
ことを指摘されていました。
上の②の課題の改善策の一つに、野外保育があっても良いのでは、と感じます。
ただ、安曇野市民さんが課題に挙げられている「小学校入学後の子どもたちの人間関係」については、野外保育と公立保育園とで交流を持つ、といった手立てで一定の解決ができるのでは、と感じます。
これからのわが国は「人」の時代になろうかと思います。「子どもたちが他者と関わろうとする姿勢」は大切だと思います。こういった点については、安曇野市民さんもおっしゃっているように、保育の場、小学校教育の場、保護者、地域問わず、子どもたちにとって良い環境を整える努力は必要だと感じます。
最後7~8行目「今後の課題」どうこうという部分については、おそらく、議員さんや野外保育に関わっている方々に対するものかと思いますので、私がこのことに対してコメントをする必要はないかと思います。ただ、ついでに書かせて頂くと、「議員さん」と言われる方々(市議、県議、国会議員問わず)が、例えば、人口減少問題や社会保障問題を(言葉は悪いですが)人ごと、評論家のように論じているのでは、と感じる時があります。そういった時には私も不愉快な気分になります。
No title
あおぞらキッズさん、安曇野市民さん、コメントありがとうございます。
書いてくれた内容を何度も読み返し、自分の思い・考えも書いてみます。
1、子どもたちの学校における状況について
子どもたちにとって学校がどれだけ過酷な環境になっているのか。
私は先生ではないので、子どもたちと始終向き合っているわけではありません。
ただ、来賓として運動会や音楽祭などに出向いたりすると、
子どもたちが先生たちから強く管理・コントロールされているように感じます。
言葉の足りない子どもたちは、それを受け止め耐えるしかなく、
そんな中で心を痛めている子たちも多いのではないでしょうか。
うちの息子のことですが、このような事例もありました。
http://www.plays.jp/adiary/diary1.cgi?id=boetu&action=view&year=2018&month=3&day=29#3_29
一方で、我が家にやってくる息子の子どもたちの様子を見ると、とてもたくましく、
そういった学校環境の中でも、楽しいことを見つけ、ある時には子どもなりに冷静に物事をとらえ、うまくやっているなとも感じます。
うちの子どもはごく平均的な子どもだと思いますが、
中には学校環境に押しつぶされるような子どもたちがいるのでしょう。
他県、他市で子供のいじめによる自殺などが取り上げられ、この安曇野市でも同じようなことが起きてからでは遅いと思います。
こういった学校環境のあり様と、野外保育出身であるかどうかということはあまり関係がないようにも思います。
学校公教育の根本的な問題がそこにあると思うからです。
安曇野市にはフリースクールができ、多様な教育機会の創出を始めている方たち、そこに送り出す親たちもいます。
一方で、ほとんどの子どもたちが通う学校教育こそ、何とかしなければと思っている大人たちもいます。
しかし、学校社会の壁は強く高い。
今の学校生活の中で、子どもたちが一人一人の個性や持ち味に合った教育にしていくことは理想ですが、
現状の教員体制では難しいと感じる。先生が複数担任制にできればいいと僕は考えていますが、それだけの人件費を市は捻出できない。
(教員の人件費は県費ですが、定員以上のものを加配する場合は市費になります。)
またこの体制以上に教育関係者の教育観が変わることが必要だと思います。
行政の教育関係者と話していると、先生や教育関係者の方たちもまた、自身の「城=固定的な考え方」を持っているようにも思います。
子どもの心に寄り添える大人(先生であれ親であれ)の必要条件として、私の言葉で言えば「愉快な心」「寄り添える心」であることだと思います。
それは、別の言い方をすれば、価値観にとらわれない、より柔軟な柔らかな心です。
もちろん、これは先生だけのテーマではなく、我々大人や親たちにも言えることですが。
そういった、子どもに寄り添える教育ができるようになるためには、
我々の中にある固い価値観にひびを入れていかなければなりません。
その一つの手段は、よりよい教育の姿を見ることだと思います。
僕が議員になって見てきた、話を聞いてきた実践例の中に、
竹下和夫先生の弁当の日の取り組みや木村泰子先生の大阪市立大空小学校(映画「みんなの学校」)、
県内では小岩井校長先生の青木村小学校での取り組みがあります。
いずれも子どもたちの心に寄り添える教育者が、公教育の現状そのままでも学校を変えています。
こういった事例に触れながら、なんとか安曇野市の学校も・・・と思うわけですが、
学校の先生方と違い、間接的なかかわり方しかできないジレンマもあります。
今の私は政治の観点からそこを進めることが役割なのですが、仕組みを変えることと同時に観を変えることの肝要さを思います。
話が広がりますが、1人1人の先生たちも頑張っています。
2020年度から英語の授業が小学校で必修化されますが、先生自身も英語になれてない方が、
英語の授業を楽しくやれ、ということはある種悲劇・喜劇のようにも思います。
「こんなはずじゃなかった。」と思っている先生も多いのではないでしょうか。
たくさんのことを求められる先生方にも何とか寄り添い、自身の中にある教育への熱い思いを実践していけるように、
先生方を応援したいと思っています。
2、自然保育について
自然保育における子どもたちの姿、また保育者など大人たちと子どもたちの関係性は、
教育に関する価値観を改めて問い直すいい実践だと思っています。
大人たちがその中で子どもたちに何かを「教える」要素が極めて少ないからです。
主体が子どもたち自身にあり、子どもたち自身が五感を働かせながら、
好奇心をもって自然の変化に対応し、自身の気づきにしていっています。
それを遊びの中で行えるのが素晴らしい。
自然保育を賛美推奨する中身が、固定的な価値観の押し付けや、
逆に多様性を認めないようなものを生み出していないか、
これについては自身が振り返るところです。
今回お二人にいい発信をしていただきました。
子どもたちのために何ができるか。一緒にお会いして考え合いたいものです。
書いてくれた内容を何度も読み返し、自分の思い・考えも書いてみます。
1、子どもたちの学校における状況について
子どもたちにとって学校がどれだけ過酷な環境になっているのか。
私は先生ではないので、子どもたちと始終向き合っているわけではありません。
ただ、来賓として運動会や音楽祭などに出向いたりすると、
子どもたちが先生たちから強く管理・コントロールされているように感じます。
言葉の足りない子どもたちは、それを受け止め耐えるしかなく、
そんな中で心を痛めている子たちも多いのではないでしょうか。
うちの息子のことですが、このような事例もありました。
http://www.plays.jp/adiary/diary1.cgi?id=boetu&action=view&year=2018&month=3&day=29#3_29
一方で、我が家にやってくる息子の子どもたちの様子を見ると、とてもたくましく、
そういった学校環境の中でも、楽しいことを見つけ、ある時には子どもなりに冷静に物事をとらえ、うまくやっているなとも感じます。
うちの子どもはごく平均的な子どもだと思いますが、
中には学校環境に押しつぶされるような子どもたちがいるのでしょう。
他県、他市で子供のいじめによる自殺などが取り上げられ、この安曇野市でも同じようなことが起きてからでは遅いと思います。
こういった学校環境のあり様と、野外保育出身であるかどうかということはあまり関係がないようにも思います。
学校公教育の根本的な問題がそこにあると思うからです。
安曇野市にはフリースクールができ、多様な教育機会の創出を始めている方たち、そこに送り出す親たちもいます。
一方で、ほとんどの子どもたちが通う学校教育こそ、何とかしなければと思っている大人たちもいます。
しかし、学校社会の壁は強く高い。
今の学校生活の中で、子どもたちが一人一人の個性や持ち味に合った教育にしていくことは理想ですが、
現状の教員体制では難しいと感じる。先生が複数担任制にできればいいと僕は考えていますが、それだけの人件費を市は捻出できない。
(教員の人件費は県費ですが、定員以上のものを加配する場合は市費になります。)
またこの体制以上に教育関係者の教育観が変わることが必要だと思います。
行政の教育関係者と話していると、先生や教育関係者の方たちもまた、自身の「城=固定的な考え方」を持っているようにも思います。
子どもの心に寄り添える大人(先生であれ親であれ)の必要条件として、私の言葉で言えば「愉快な心」「寄り添える心」であることだと思います。
それは、別の言い方をすれば、価値観にとらわれない、より柔軟な柔らかな心です。
もちろん、これは先生だけのテーマではなく、我々大人や親たちにも言えることですが。
そういった、子どもに寄り添える教育ができるようになるためには、
我々の中にある固い価値観にひびを入れていかなければなりません。
その一つの手段は、よりよい教育の姿を見ることだと思います。
僕が議員になって見てきた、話を聞いてきた実践例の中に、
竹下和夫先生の弁当の日の取り組みや木村泰子先生の大阪市立大空小学校(映画「みんなの学校」)、
県内では小岩井校長先生の青木村小学校での取り組みがあります。
いずれも子どもたちの心に寄り添える教育者が、公教育の現状そのままでも学校を変えています。
こういった事例に触れながら、なんとか安曇野市の学校も・・・と思うわけですが、
学校の先生方と違い、間接的なかかわり方しかできないジレンマもあります。
今の私は政治の観点からそこを進めることが役割なのですが、仕組みを変えることと同時に観を変えることの肝要さを思います。
話が広がりますが、1人1人の先生たちも頑張っています。
2020年度から英語の授業が小学校で必修化されますが、先生自身も英語になれてない方が、
英語の授業を楽しくやれ、ということはある種悲劇・喜劇のようにも思います。
「こんなはずじゃなかった。」と思っている先生も多いのではないでしょうか。
たくさんのことを求められる先生方にも何とか寄り添い、自身の中にある教育への熱い思いを実践していけるように、
先生方を応援したいと思っています。
2、自然保育について
自然保育における子どもたちの姿、また保育者など大人たちと子どもたちの関係性は、
教育に関する価値観を改めて問い直すいい実践だと思っています。
大人たちがその中で子どもたちに何かを「教える」要素が極めて少ないからです。
主体が子どもたち自身にあり、子どもたち自身が五感を働かせながら、
好奇心をもって自然の変化に対応し、自身の気づきにしていっています。
それを遊びの中で行えるのが素晴らしい。
自然保育を賛美推奨する中身が、固定的な価値観の押し付けや、
逆に多様性を認めないようなものを生み出していないか、
これについては自身が振り返るところです。
今回お二人にいい発信をしていただきました。
子どもたちのために何ができるか。一緒にお会いして考え合いたいものです。
増田さんのコメントについて
私のコメントに対し、増田さんが自身の教育に関するお考えを書いて書いて頂いたこと、感謝致します。
上のコメントを読ませて頂き、学校教育や野外保育に対する増田さんのお考えに同意できるところ、少し考えが違うところがありますが(それぞれ考えの相違点があるのはある意味当然ですが。生意気な書き方ですみません。)、以前に増田さんともお会いし、この国の望ましい方向性など、質問、意見をさせてもらいましたが、安曇野市民ではない(近隣の市ですが)こともあり、時間等の理由でなかなかお会いできず、教育、保育の方向性以外の点でもまた質問させていただきたい点もあるのですが。もし、都合がつかず、お会いできそうになければ、気がついた点などあれば、またコメントさせてもらいます。
上のコメントを読ませて頂き、学校教育や野外保育に対する増田さんのお考えに同意できるところ、少し考えが違うところがありますが(それぞれ考えの相違点があるのはある意味当然ですが。生意気な書き方ですみません。)、以前に増田さんともお会いし、この国の望ましい方向性など、質問、意見をさせてもらいましたが、安曇野市民ではない(近隣の市ですが)こともあり、時間等の理由でなかなかお会いできず、教育、保育の方向性以外の点でもまた質問させていただきたい点もあるのですが。もし、都合がつかず、お会いできそうになければ、気がついた点などあれば、またコメントさせてもらいます。
No title
話がどんどん現実と離れて難しくなり、まるで評論家というか、講演の内容のようになってきた印象です。私はただ今も苦しんでいる子供と親が存在することを踏まえ、安曇野市で自殺が起こっていないのは、たまたまで地震と同じようにいつ起こってもおかしくないと思っています。
たまたま、野外保育出身の子供が不登校となれば、それは野外保育だから不登校になったと他の親は認識します。教師もそう思うかもしれません。そんな世界です。子供には罪はないのに先生の当り外れが大きすぎます。ほとんどの先生は普通です。しかし、仮に1%でも変な先生に当たればそんな不幸な話はありません。子供の気持ちが全く理解できない、しようとしない、怒鳴る追い出す、そんな先生は実在します。子供と一日過ごしていれば、先生は子供の気持ちを理解しているなど幻想です。
教育委員会もあてになりません。何故なら校長経験者がトップと要職につくからです。当然学校を守ります。実際に話し合いをしたこともありますが、あんな屈辱的で腹立たしい時間はありませんでした。二度と行きたくありません。
残念ながら学校や教師、教育委員会の教育観など変わるはずがありません。極希少ないい実践を聞いたところで、何が変わると言うのですか。変わったクラスがどこかにあったとして、それがまさに今苦しんでいる子供に何か影響がありますか。
問われているのは「今」なんです。振り返っているその間にも、考えているその間にも苦しみ続けている子供が存在することが問題だと思います。
たまたま、野外保育出身の子供が不登校となれば、それは野外保育だから不登校になったと他の親は認識します。教師もそう思うかもしれません。そんな世界です。子供には罪はないのに先生の当り外れが大きすぎます。ほとんどの先生は普通です。しかし、仮に1%でも変な先生に当たればそんな不幸な話はありません。子供の気持ちが全く理解できない、しようとしない、怒鳴る追い出す、そんな先生は実在します。子供と一日過ごしていれば、先生は子供の気持ちを理解しているなど幻想です。
教育委員会もあてになりません。何故なら校長経験者がトップと要職につくからです。当然学校を守ります。実際に話し合いをしたこともありますが、あんな屈辱的で腹立たしい時間はありませんでした。二度と行きたくありません。
残念ながら学校や教師、教育委員会の教育観など変わるはずがありません。極希少ないい実践を聞いたところで、何が変わると言うのですか。変わったクラスがどこかにあったとして、それがまさに今苦しんでいる子供に何か影響がありますか。
問われているのは「今」なんです。振り返っているその間にも、考えているその間にも苦しみ続けている子供が存在することが問題だと思います。
No title
10月13日の安曇野市民さんのコメントを読ませて頂いて、おそらく増田さんに対するメッセージだと理解しましたが、内容を読ませて頂き、また感想を書きたくなったので、ご容赦ください。(言うまでもなく、私のコメントは増田さんを守るためのものではありません。この件について、お2人のコメントを読ませて頂くと、増田さんよりも安曇野市民さんのコメントの方がうなづける部分もあります。増田さんには恐縮ですが。)
①野外保育と小学校教育とのつながりについては、私は安曇野市民さんとは違った考え方のようですが、私はこれまでのコメントで私見を書いてきており、また、野外保育関係者でもないので、これ以上、増田さんと安曇野市民さんのやり取りに横入りをするようなコメントはお二人に申し訳ないので、今回はコメントしません。
②「1%でも変な教師」の部分ですが、私は8年程前まで何年間か小学校で(安曇野市以外ですが)講師も経験しましたが、私の経験だと(あくまでも私から見た場合ですが)「教師としていかがか」という人の割合はもう少し多いと感じました。一例ですが、子どもの下校後、職員室で聞くに堪えないような言い方で子どもの欠点をあげつらうような発言をする、運動会の練習でちょっと話を聞いていないだけの子どもの頭を応援旗の柄でこずくなどです。この点については、安曇野市民さんのお考えに同意する部分が多いです。
③「教育委員会」の部分については、数年前、それなりの規模のある政党の県連の関係者の方(安曇野の方です)も、安曇野市民さんと同じ疑問を持って、憤った様子で意見をされていました。私も元校長の方が市役所のホールでふんぞり返ったような態度でいた時には、市の教育委員会に電話で「元校長先生としての自覚を持った言動」をお願いしました。
④「教育観」の部分については、私は安曇野市民さんとは違う考えです。公教育(私立、民間もですが)に関わる「先生」が例えば憲法や法律に明確に反する教育観を有していた場合は、周りの人間(子どももですが)が異論を唱え、教育観を改めるよう促すのは問題ないと思います。
もっと書くと、10年ほど前(ゆとり教育見直しの頃ですが)、私と電話で話された文科省の方は「一部の強い政治家が文科省にいろいろ言って来て困っているんですよ。」といったような話をされていました。学校が大人社会以上に過酷になったのは、その頃からかな、とかつて現場にいた私は感じています。また、数か月前の文芸春秋(だったと思いますが)の記事によると、ある識者の方の見立てによると、最近のわが国の教育界は一部の経済関係者の影響を受けているのでは、と書いてありました。こういった人たちが少しでも考え方を改めていただければ、教育関係者の考え方も変わっていくのでは、と思います。
今回も横入りのようなコメント、申し訳なく思います。ただ、安曇野市民さん、増田さんの問題意識に考えさせられる点があり、コメントさせてもらいました。
①野外保育と小学校教育とのつながりについては、私は安曇野市民さんとは違った考え方のようですが、私はこれまでのコメントで私見を書いてきており、また、野外保育関係者でもないので、これ以上、増田さんと安曇野市民さんのやり取りに横入りをするようなコメントはお二人に申し訳ないので、今回はコメントしません。
②「1%でも変な教師」の部分ですが、私は8年程前まで何年間か小学校で(安曇野市以外ですが)講師も経験しましたが、私の経験だと(あくまでも私から見た場合ですが)「教師としていかがか」という人の割合はもう少し多いと感じました。一例ですが、子どもの下校後、職員室で聞くに堪えないような言い方で子どもの欠点をあげつらうような発言をする、運動会の練習でちょっと話を聞いていないだけの子どもの頭を応援旗の柄でこずくなどです。この点については、安曇野市民さんのお考えに同意する部分が多いです。
③「教育委員会」の部分については、数年前、それなりの規模のある政党の県連の関係者の方(安曇野の方です)も、安曇野市民さんと同じ疑問を持って、憤った様子で意見をされていました。私も元校長の方が市役所のホールでふんぞり返ったような態度でいた時には、市の教育委員会に電話で「元校長先生としての自覚を持った言動」をお願いしました。
④「教育観」の部分については、私は安曇野市民さんとは違う考えです。公教育(私立、民間もですが)に関わる「先生」が例えば憲法や法律に明確に反する教育観を有していた場合は、周りの人間(子どももですが)が異論を唱え、教育観を改めるよう促すのは問題ないと思います。
もっと書くと、10年ほど前(ゆとり教育見直しの頃ですが)、私と電話で話された文科省の方は「一部の強い政治家が文科省にいろいろ言って来て困っているんですよ。」といったような話をされていました。学校が大人社会以上に過酷になったのは、その頃からかな、とかつて現場にいた私は感じています。また、数か月前の文芸春秋(だったと思いますが)の記事によると、ある識者の方の見立てによると、最近のわが国の教育界は一部の経済関係者の影響を受けているのでは、と書いてありました。こういった人たちが少しでも考え方を改めていただければ、教育関係者の考え方も変わっていくのでは、と思います。
今回も横入りのようなコメント、申し訳なく思います。ただ、安曇野市民さん、増田さんの問題意識に考えさせられる点があり、コメントさせてもらいました。
No title
学校だから教師は聖人君子の集まりな訳がありません。教育委員会も同様です。安曇野市だからといって例外な訳はありません。
病院であれば患者のいない場所で患者の文句をいい、店であれば客のいない場所で客の文句をいい、福祉施設であれば老人障害者のいない場所で老人障害者の文句を言う。それが人間の社会だと思います。当然学校であれば、子供のいない場所で子供の文句を言っているでしょうし、飲み会の場であればネタにされているでしょう。
数年前には私も子供もそのネタにされたことと思います。またクレーマーから電話がかかってきた、あの子はクレーマーの子供だと言われていたと思います。そのような教師がたった1%の訳がありません。研修会などに出席すれば、それなりの態度で過ごしていることでしょう。綺麗ごとだけでは片付けられない、それが現実の社会の一面というもだと思います。
学校にも教師にも教育委員会にも何も期待はしません。ただ、今学校生活を送っている子供達、その親を苦しめないで欲しいだけです。助けを求める子供や親に対して、追い討ちをかけるようなことをしないで欲しいだけです。
野外保育から話がそれてしまい申し訳ありません。
病院であれば患者のいない場所で患者の文句をいい、店であれば客のいない場所で客の文句をいい、福祉施設であれば老人障害者のいない場所で老人障害者の文句を言う。それが人間の社会だと思います。当然学校であれば、子供のいない場所で子供の文句を言っているでしょうし、飲み会の場であればネタにされているでしょう。
数年前には私も子供もそのネタにされたことと思います。またクレーマーから電話がかかってきた、あの子はクレーマーの子供だと言われていたと思います。そのような教師がたった1%の訳がありません。研修会などに出席すれば、それなりの態度で過ごしていることでしょう。綺麗ごとだけでは片付けられない、それが現実の社会の一面というもだと思います。
学校にも教師にも教育委員会にも何も期待はしません。ただ、今学校生活を送っている子供達、その親を苦しめないで欲しいだけです。助けを求める子供や親に対して、追い討ちをかけるようなことをしないで欲しいだけです。
野外保育から話がそれてしまい申し訳ありません。